|
メーカーがそのクルマにどのくらい力を入れているのか。僕等ユーザーはそれを雑誌の記事や新聞の広告などからしか判断できないわけだけど、そういう次元で判断すれば、今度のアテンザにかけるマツダの意気込みたるや、並々ならぬものを感じる。こんな広告費使って大丈夫なのか? と、こちらが心配してしまうほどだ。そういうことなんだけど、実を言うと僕はこのクルマにそれ程の魅力を感じないんである。
■乗らなきゃ分からない?
「クルマは乗らなきゃ分からない」というのは評論家の決まり文句だけど、これって本当だろうか? だって一方では「日本車は性能は申し分ないけどツマラナイ」なんていう決まり文句もあったりするでしょう? これじゃあ話としては少々矛盾しているではないか。
で、僕はどうかと言えば「乗らなきゃ」とは思っていない。いや、乗らなきゃ分からないことは間違いなくあると思うけれど、つまり「乗らなくても感じることはある」というスタンスなんである。クルマは移動体だから、その「動き」に関わることは重要であり、ある意味基本なのだけど、いまそれだけでクルマの優劣を判断することがいかにナンセンスなのかは、多くの人が感じるところだと思う。じゃなければ、あらゆるドライバビリティに劣る「旧車」に好きこのんで乗り続ける人などいる筈ないじゃないか。
■走りが命
で、アテンザ。
冒頭に書いたように、あちこちで多くの記事、広告が展開されているけれど、もっぱらそれは「走り」のよさに話題が集中しているように見える。ヨーロッパ市場を見据えて開発したこのアテンザは、その直接のライバルである現地メーカー、とりわけスポーティセダンの代名詞的存在であるBMWをも凌いだというもので、これはすごい日本車が現れたなんていうもの言いだ。
往々にして、走りのいい国産車が発表されるとこの手の比喩がよく使われ、結局熱が冷めれば「そうでもなかった」ということに落ち着くことが多いのだけど、とにかくいまはそういうことになっている。なんでも日本全国の営業マンを全員集めて試乗させたっていうから大変なもんだ。
けれども、僕はそういう内容の記事を読めば読むほど虚しさを感じてしまう。それは、走りだ何だという前に、このクルマの佇まいにほとんど感動を覚えないからだ。
|
|
■無味乾燥
ま、早い話「カタチ」だ。エクステリアデザインがあまりに凡庸に過ぎる。見ていて全然面白くない。ターゲットのヨーロッパではアルファ156やアウディのA4など、セダン/ワゴンが次々と新しい提案を示しているのに、こんなスタイルで通用するのかと僕は大いに疑問を抱いている。
近年のマツダのミディアムセダンといえば、約10年前に発表されたユーノス500(*1)という傑作がある。このクルマのエクステリアとパッケージングは、ほとんど奇跡的と言ってもよい程完成度が高く、世界中のデザイナーを驚かせ、実際いまでも多くの外国車メーカーに「お手本」として展示されているという。
実はこのアテンザもそのスタイルを「売り」のひとつにしていて、まさに走り出さんとする動物の躍動感を表したんだそうだけど、もし少々強めのクサビ型シルエットがそれだと言うのなら、まあ何とも古くさい発想じゃないか。ある雑誌ではそのユーノス500のDNAを感じさせるなんていう記事もあって、それは恐らく同じイメージのヘッドライトなどによるフロント回りのことを言っているのかもしれないけど、それはあまりに視野が狭すぎる。もし、どうしてもユーノス500を引き合いに出すのなら、極めて魅力的な曲面処理を取り去り、オリジナリティ溢れる意匠を捨て、クーペのような美しさと高い居住性を融合させた高度なバランス感覚をなくしたのがこのアテンザ、という感じだろうか。え、パッケージングが優れているって? いやいや、しっかり3ナンバーサイズに拡大したこのクルマの室内がそこそこ広いのは当たり前の話だろうに。
10年も前より後退したデザインワークがどうしてまかり通るのか、もちろん僕には分からない。僕が知ってるのは、そのユーノス500を手掛けたチーフデザイナーが、いまはマツダにいないということだけだ。ま、何にしても、このクルマのエクステリアに「ときめき」がないのは、そうして「乗らなくても」よく分かってしまう。そういう視点は、はてさて間違ったものの見方なんだろうか。
で、しばらく新車がなかったマツダが、ブランニューのアテンザに多くを期待するのはもちろん理解できるけれど、走りに特化したようなセダン/ワゴンに、マツダは社運なんかをかけてしまっていいのだろうか? 僕はそれがとても心配なんである。
(02/06/05 すぎもとたかよし)
「日本の自動車評論を斬る! すぎもとたかよしのブログ」へ
|