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おもしろいと思うのは、世の中的にシーマというのは、“あの”シーマだということなんである。
クルマ好きにしてみれば、新しいシーマが現行フーガのストレッチ版であり、HVシステムまでもを流用していることは周知のところだ。逆に、もう少し差別化することはできなかったの?くらいな感じだろう。
けれども、スバルの軽撤退が「360」を持ち出してニュースになったのと同様、世の中一般として、新型シーマは「シーマ現象」と直接結びつけるべきクルマとして取り上げられ、TVや新聞の経済コーナーを飾った。
なんだか短絡的だよなあ、と一瞬思うわけだけど、果たしてそうなのかといま一度思い直したりするんである。
つまり、新しいシーマが初代とあらゆる意味で違うんだという事情に、わりと簡単に納得しいる僕ら、あるいは日本車のあり方が実はおかしんじゃないかと。
カローラII兄弟、チェイサー・クレスタ、プログレ、スープラ、サニー、プリメーラ、セフィーロ、プレリュード、インテグラ、S-MX、ユーノス連合、ディアマンテ、FTO、MAX、等々。
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比較的最近のクルマだけでも、絶版、つまり消えていった名前はいくつでもあげることができる。もちろん、中にはサニーがティーダになったような“発展的解消”もあるけれど、それにしても数は多い。
しかも、こういうのは過去の話じゃなくて、ベルタ、ブレイド、インスパイアみたいに、いま現在も続いている話だ。
僕らクルマファンは、消えゆくクルマのそれぞれの事情をたいていは知っている。だから「当たり前だ」とか「仕方がない」なんて理由で納得や理解もする。けれども、それはある種の“麻痺”とも言えるんじゃないかと。
もちろん、メーカーにとっては売れないものは残せないし、商品企画や戦略もある。それでも日本のメーカーが安易に車種を増やすことは間違いないし、その結果絶版になるクルマが多いのもおそらく事実だろう。
それを経済上の新陳代謝と肯定するひともいるけれど、僕は日本車の発展にとってやっぱりマイナスになっていると思う。消えてゆくクルマを見て何も感じないような麻痺状態には、できることならなりたくない。
TVや新聞が新しいシーマを「シーマ現象」に結びつけるのは、だからとても正常な感覚なのかもしれない。逆に、近年の日本車、自動車メディア、あるいは僕らクルマファンにこそ、ニュートラルな感覚が欠落しているのではないかという意味で。
あ、新型がフーガそのものっていう残念な事実はまた別の話だけれど。
(12/05/03 すぎもとたかよし)
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